現在でも多くの人に親しまれている詰将棋。
本将棋と違い、詰将棋にはパズル特有の意外さ、洗練さ、
などが含まれている知的ゲームだと言えます。
が、それはどこからくるのでしょうか?
今回は詰将棋の源流を探ってみます。
歴史
江戸時代に1世名人大橋宗桂が作った、象戯力草
と呼ばれる詰将棋の作品集があります。
これが最も古い詰将棋と言われています。
象戯力草は現在の詰将棋の原型とも言うべきもので、
将棋の終盤の練習問題のような形式でした。
最後に駒が余ってもかまわなかったようです。
この象戯力草は、天皇に献上されました。
2世名人2代大橋宗古が、作品集 将棋智実を幕府に献上しました。
以後、ときの名人、名人候補が、詰将棋を作り、
幕府に献上するようになりました。
ここから各名人が心血を注いで詰将棋を作るのですが、
徐々に洗練されたものになっていき、
現在の詰将棋に近いものになっていきます。
江戸時代の詰将棋
現代では、名人というのはタイトルの名前であり、実力制ですが、
この時代、名人は世襲制でした。
当時、将棋家元の伊藤家に、三代伊藤宗看、伊藤看寿
という兄弟がいました。
宗看は7世名人、看寿も名人候補だったのですが、
その前に亡くなってしまいました。
この二人は将棋を指すことは勿論、詰将棋にも才能がありました。
二人は過去の家元の名人にならい、詰将棋100題を作成し、
幕府へ献上しました。
これが大変にレベルが高く、後世まで影響をあたえています。
兄宗看の作品は、「将棋無双」とよばれ、大変難解な作品、
弟看寿の作品は、「将棋図巧」とよばれ、美しく優れた作品
と言われています。
詰むや詰まざるや
宗看の「将棋無双」は、あまりに難解な作品だったため
本当に詰むのだろうか、というところから、
詰むや詰まざるや、と呼ばれました。
看寿の「将棋図巧」は「将棋無双」の影響を強く受けており、
より洗練され芸術度を上げた作品と言えます。
その作品 第100番に、寿とよばれる作品があります。
その正解手順はなんと、611手詰!長手数作品のはしりです。
1755年に発表されたこの作品は最長手数の作品として
記録を持っていました。
この記録は200年間破られませんでした。
また、「将棋図巧」には「裸玉」「煙詰」などの
驚愕すべき作品があり、これらを解かないまでも、
盤に並べて鑑賞するだけでも詰将棋の醍醐味を味わえる
貴重なものとなっています。
まとめ
詰将棋の歴史、江戸時代の詰将棋の説明をしました。
当時の詰将棋のレベルは相当に高く、
特に宗看、看寿の時代は黄金期と呼ばれ、
現代の詰将棋にも大きく影響を与えています。
詰将棋は、古いものでも十分鑑賞できる素晴らしい世界です。
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